20200927 意思疎通の困難な同居人

 3年をともに過ごした同居人が息を引き取ったのは今年の9月の末のことである。

 食事が出来なくなり、水だけで約1ヶ月を生き延びた同居人は、その間今まで以上の甘えっぷりで私に迫ってきた。

 私が家につけば覚束無い足取りで近くの部屋まで迎えに来た。便意を催しトイレに駆け込めば、その間の時間が惜しいのか、やはり覚束無い足取りでトイレの入口まで来るとそのまま待機していた。

 我が家の同居人は言葉が通じないため、通常より意思疎通が難しい。それでも、喜怒哀楽が声と表情によく表れる同居人の意思をなるべく汲みながらともに上手くやってきたつもりだ。額にできた瘤の治療の継続に待ったをかけ、最後の1ヶ月を穏やかに過ごそうと腹を括ったのもそのためである。

 同居人の額から鼻腔にかけてできていたリンパ腫は抗癌剤治療を試みた結果、一時的には縮小したものの、3ヶ月ほどで腎臓にまで浸潤した。同居人が患っていた病はネット上で調べている限り、根治が非常に難しそうだった。当時の私は同居人が腎臓に浸潤したリンパ腫が脊髄にまで到達し発作で苦しむか、鼻腔のリンパ腫が顔面崩壊まで肥大するか、食欲廃絶で息絶えるのを待つか、どれか選べといわれているようなものだった。

 同居人は私に撫でられることや、抱かれること、一緒の布団で寝ることが好きだったので、最終的に治療を断念し、リンパ腫の浸潤よりも先に食欲廃絶で息絶えるのを待つ道を選択した。

 発作を止める薬があるといっても、やはり発作が起きている間苦しむことは変わらなかった。同居人の顔はとても美しく顔面が崩壊することは私が耐えられなかった。また、鼻腔にできたリンパ腫は臭いが酷く膿や鼻水なども多く出るという話を読んでいたので、抱き上げることや添い寝することが出来なくなることが私には悲しかったし同居人も本意ではないだろうと感じたのだ。

 その間今までしていた強制給餌は止めた。そもそも消化することが出来なくなっていたためだ。薬で胃腸を動かすことも止めた。今まで抗がん剤治療と共に続けていた皮下点滴も同じような理由から止めた。

 毎週往復1時間かけて通院していたのがぱったりとなくなり、その分の時間は同居人と過ごした。亡くなるまでの期間は全くと言っていいほど出歩かず、読書などをして同居人との時間をとれるようにした。

 彼は外を眺めるのが好きなので、小蝿対策のため閉め切っていた窓を開けるようにした。なるべく私のそばにいたいようなので、私の食事用の机は窓際に置いた。一番良いと思われる環境で余生を楽しむことが出来るよう最大限の工夫をした。

 担当の医師からは最短で1ヶ月、もって3ヶ月だろうと伝えられていた。なにも対処しなければ近いうちに同居人が息絶えることは明白だったが、腹を括った後に心乱れることはなく、それまで以上に穏やかな生活を送ることができた。

 最後の2日間は立てなくなりながらも同居人に移動する意思はあり、早く楽になれるよう祈っていた。安楽死という言葉も脳裏をよぎった。最初に下半身が動かなくなり、上半身が動かなくなり、頭を支える部分も動かなくなったのか倒れたまま移動したがった。

 いつの日からか同居人に「愛しているよ」「大好きだよ」と声に出して伝えることが習慣化していた。最後の2日間はそれに加えて「ありがとう」という言葉をずっと伝えていた気がする。

 今年の5月末に発病したとき、最後かもしれないという理由から同居人との添い寝を始めた。同居人は慢性鼻炎持ちだったので発病するまで私は添い寝を嫌がっていたのだが、そんなものは洗えばよく命にはかえられないという点から添い寝に踏み切った。同居人はいたく喜び、私が寝ている間は足もとや枕でずっと横になっていた。くわえて、配偶者もそんな同居人を愛おしく思い始めたのか以前に増して構うようになった。そして素直に同居人もそれを喜びこれまで以上に配偶者に懐いた。

 最期まで幸せな気持ちで送り出せたのなら何よりだと思う。

 

 ここでここまで協力してくれた方にお礼を述べたい。

 かかりつけのお医者様、同居人を大切に扱ってくれた家族のみんな。前の家の退去費用で、治療費を捻出することができなかった私にお金を貸してくれたお父さん。本当にありがとうございました。

 

私の帰りを夫と待つ同居人ホットカーペットが温かい。

私の足音に反応する同居人、ドアがあいた瞬間ビビッて部屋の中に隠れた。

ベットで寝息をたてる同居人。夫の足の間が好きらしい。

亡くなる直前。私の膝の上や私の匂いのするものに良く座る。






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2022.7.31 加筆